生誕200年の世阿弥さん

私はお能が好き、子供の頃から父と国営放送のお能の番組を良く観ていた。
理屈ではなく、ただただお能が好き。
世阿弥さんはどこまでも幽玄論者で、その表現は、人のこころの欲の交流を絶ち、醜さのフィードバックを省いた清らかさのみ。
しかし、それは悲しく、寂しく、封建的で、抑圧された魂の叫びでもある。
静かで、観るものの内から日本人特有の魂を引き出す能の舞、それだけでなく観ているという行為が魂と直結し自分と一体化するこの行為は、芯から癒され、心が豊かになり、日本人としての誇りをも覚えさせられる。
魂が洗われてピカピカになる!!
えくせれーんと!


しかーし、激しく鬼のような修羅の舞は私は苦手だ。
世阿弥さんは足利義教によって佐渡に流されたとき、たった一つ鬼の面(おもて)をたずさえていたそうだ。
世阿弥さんは鬼の舞いは書かなかったので、これは護身用とされている。
世阿弥さんの出家してからの名は、至翁。
翁とは人の心の善の表現で、裏返ると、鬼、になるそうだ。



世阿弥さんが娘婿の金春禅竹に宛てた「佐渡状」のなかで「鬼の能の舞」についての質問に答えているくだりがある。
鬼の舞は教えられないと…きっぱり跳ね除けている。
東大教授曰く、鬼については充分に人生経験をした後に考えてもよいことであるから、今はすべき事に集中しなさい、と言うことではないかと…
人はどんなに善人の振りをしても、憎しみ、嫉妬、怒り、を心の底に沈めて生き続けているもの、
その姿は修羅で、鬼である。


今日は節分、一年に一度、鬼は自分の中に住んでいるのだと思う日。